国産リネンのあゆみ

日本の麻

 

 

古来、日本において麻と言えば「大麻」か「苧麻」でした。
この二つの麻は古事記や、日本書紀、万葉集にたびたび登場しています。
特に、大麻は人々の生活に深く根付いていました。今でも、日本の神社の注連縄には大麻が使われています。
日本においての製麻工業は、この大麻を機械工業化することでした。

ですが、この大麻は繊維が粗くて、硬かったため当時の加工技術では紡績することが難しく、舶来の亜麻がそれにとって代わり、次いで苧麻、黄麻といった性質の異なる麻が工業化されていきました。



製麻工業の誕生


日本における製麻工業誕生の中心的存在となるのが当時内務省の技師だった、吉田健作氏です。
明治11年農工業調査の官命を受け、フランスへ留学。亜麻紡績を専攻します。
3年後日本へ帰国。製麻事業の必要性を熱心に提唱しました。
日本各地に出張し、麻業調査、研究を行い、とうとう明治17年6月、帝国製麻の前身となる近江麻糸紡織会社が、設立されたのです。


近江麻糸開業式における吉田健作氏の申告(筆跡)


北海道産亜麻耕作の開始

前述したとおり、日本に亜麻耕作の技術が持ち込まれる前は、大麻がさかんに生産されていました。
※明治14年の大麻の全道生産高は約70トンという記録があります。

吉田氏は北海道においても、麻業に関するさまざまな調査を行い、この地が亜麻耕作に好適地であるという結論にいたるのです。

氏は明治20年北海道製麻会社の創立に参画し、22年5月フランスより技師を雇い入れ、更にロシアの亜麻種子の買い付けを行います。同時期にベルギーより亜麻耕作指導のためコンスタン・オイブレヒト氏が来日。日本で本格的な亜麻事業がスタートします。

 

 

 

 

日本の亜麻耕作、ウォーターレッティング、スカッチング、ハックリングなどの技術的基礎は、このコンスタン・オイブレヒト氏によって築かれました。

始めは病害虫の発生、亜麻種子の価格高騰により困難が続きましたが、日清戦争による需要増加、為替下落による物価高騰などの影響で亜麻耕作も次第に好調の波に乗り、品種改良、輪作方式採用などの技術が進み、各地に亜麻製線所が増設されていきました。

北海道の農家も亜麻耕作に熟練し、収穫高も増加していったのです。

 

 

安田善次郎翁

北海道に亜麻の栽培が根付き、日本各地に亜麻紡績会社が勃興していく中、明治期の著名な実業家、安田善次郎翁はリネンの可能性と、国内で繊維資源を自給自足することの重要性に着目し、リネンを国家の基幹産業に育てようと動きます。

安田翁の働きにより、いくつかのリネン会社が合併して創立されたのが、帝国製麻。帝国繊維の前身となる企業でした。

 

 

 

辰野金吾博士の設計による旧帝国製麻ビル

 

 


 

リネンは低伸度・高強力という特徴的な性質を持つ天然繊維であり、現在のナイロンやポリエステルといった繊維素材が担っている資材分野に多く使われていました。

 

日本丸帆布

縫い糸

 

 

 

 

国産リネンの生産は増え続け、量的なピークを迎えたのは昭和19年。この年の亜麻の作付面積は約40,000ha、亜麻の生産量は約64,000t。これは現代ヨーロッパ全体の亜麻の作付け面積の約1/3、亜麻生産量は約4割に相当します。また、リネン糸の生産量は13,000tありました。2021年の1年間で、日本全体で輸入した総量は約800tです。約16倍のリネン糸を日本国内で紡績していたことになります。

 

 

 

 

 

 

 

ー国産リネンの終焉ー

大きな産業に成長した国産リネンですが、第2次大戦後、GHQによる帝国繊維の解体、また安価な合成繊維の普及があり、その規模を急速に減じていき、1960年代に繊維用亜麻の栽培は消滅。またリネンの潤紡績工場は昭和も終わりに閉鎖されて中国へ移設され、純国産のリネン潤紡績糸の歴史は幕を閉じました。

網糸

 

 

現在、北海道では採油用の亜麻の栽培が続けられています。また繊維用の亜麻も試験的に栽培が再開されたと聞きます。途絶えたかに思える国産リネンの火は小さくともいまだに消えていません。

またいつの日か、国産リネン紡績糸が復活する日が来ることを願っています。

 

『帝国製麻株式会社三十年史』より  編集兼発行人:安岡志朗 発行:昭和12年10月30日
『帝国製麻株式会社五十年史』より  発行:昭和34年10月31日